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「お月さんも一緒に行くそうだよ」
母に促されて私は外に出る。
月は中天に高くじっと私を待っている。
歩き出すとまた母が言う。
「ほら、ついてくるよ」
本当に月は私のあとをついてくる。
下駄を鳴らして少し走ってみたが月も走ってくるようだ。
嬉しくなった。
風呂屋は近くだったのでこの道行きもほんの僅かな時間だった。
「お月さんは待っていてくれるからゆっくり入ろうね」
金木犀が強烈に香る風呂屋の入り口を入るとハゲ頭のおじいさんがにこやかに迎えてくれる。
「オー来たかい」
僕は背伸びをして番台に料金を置く。たしか5円だった。大人は7円。
体を洗って貰っている間も気が気ではない。
お月さんは本当に待っていてくれるだろうか。
「50数えるあいだ肩までつかりなさい」
「・・・・・・48,49,50!」
私は湯船から飛び出してそそくさと着替える。
「慌てなくてもいいよ、お月さんは待っているよ」
いつものことなので番台のハゲ頭は微笑んでいる。
「かーちゃん、早く!」
私は一足早く外に出る。
木犀の香りの中、月は静かに浮かんで僕を待っていてくれた。
私は一人でほほ笑み月に向かって手を振る。
帰りもお月さんと一緒。
夜風が気持ちよい。
寝床でもお月さんのことを思った。
「今も僕の家の上の空にいるのだろうか?」
確かめに行きたかったが眠くなってしまった。
遠い遠い昔のことである。

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投稿日 : 2009年9月5日 (土)

縁側

私の家に縁側はなかった。8畳くらいの部屋にゴザを敷いて生活していた。
畳がないので何畳だったかは判然としない。
だが友達の西村君の家には長い縁側があった。広い廊下には天井まで
届く本棚があり、少年雑誌や漫画がものすごくたくさんあった。西村君の
お父さんはお医者さんで、口ひげを蓄えた上品そうな人だった。終戦
直後の家に水洗便所があったのだからかなりの金持ちだったのだろう。
私は西村君がいなくてもこの縁側に出入りして飽くことなく本を読み
あさった。ロビン・フッドという英雄に出会ったのも、鉄腕アトムに興奮した
のもこの縁側であった。入り口に黒い犬がいて怖かったことを除けば申し
分のない私の「書斎」だった。時々上品な西村君のお母さんがお茶と
お菓子をくれる。積み木も沢山あったので西村君がいなくても一人で
遊んだ。縁側の前には広い庭があり築山があった。
築山の向こうは勝田という高校の先生の家だった。勝田先生の息子も
私の友達だったがこの家はひっそりとして私を拒絶しているみたいだった。
ある日上品に見えた西村君のおとうさんが無茶苦茶に激高して、
西村君の頭を足蹴にするのを見た。何がなんだか分からなかったが
「大人を顔で判断してはいかんな」
とその時悟った。
3人兄弟で上の二人は医者になったが西村君は小さなDPEに就職した。
親に言わせれば「一番出来が悪かった」と言うことなのだろう。
でも私はいつも彼の育ちの良さに微かな嫉妬を覚えていたようだ。
悪びれない、せこくない、意地悪をしない、他人をうらやまない、
何よりかわいかった。
もう半世紀も会ってない。どうしているだろう。世間の垢にまみれ普通の
おじいさんになっているのだろうか。会って話をしたいとは思わないが、
彼の今の生活をこっそり覗いてみたいものだ。

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投稿日 : 2009年8月30日 (日)

うどん

もの悲しい鐘の音が夜の町を通り過ぎる。
カラン、カラン。カラン・・・屋台の引き棒にぶら下げられた鐘の音がゆっくりと遠ざかる。
私は母の顔色を見る。
「行っといで」
縫い物をしていた母は微笑む。
私は脱兎のごとく飛び出して屋台に向かって叫ぶ。
「おじさん!うどん二つ!」
一杯15円だった。蕎麦は20円だったと記憶している。
私の古里ではこの屋台を「夜泣きうどん」と呼んだ。舗装していない路地裏の道をゴトゴトと流して歩く
屋台の鐘は泣いているように聞こえたからであろうか?
貧しかったので夜泣きうどん一杯でも滅多に食べられなかった。
「これを縫ったら300円になる。そしたら学校へ給食のお金を持って行けるよ」
そんな母の声を聞きながら腹一杯になった私は裁縫台の下でうつらうつらする。
母がそっと小さな布団を掛けてくれる。
遠く懐かしい冬の夜の思い出である。

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投稿日 : 2009年8月29日 (土)

目にはさやかに見えねども

朝夕の風は秋の気配。もうすぐ河原のススキは見事な白いうねりを見せてくれる。楽しみだ。

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投稿日 : 2009年8月26日 (水)

パンホール

昭和30年代、松山市で突如「パンホール」がブームとなる。なぜそうなったかは今も分からないが、猫も杓子も朝になるとサンドイッチを食べコーヒーを飲みそれがオシャレとされた。もちろん自宅でではない。パンホールと呼ばれる小さな喫茶店で止まり木に座ってである。長居はしない。食べたらビジネススーツを風になびかせ颯爽と席を立たなければ「オシャレ」ではない。従って客の回転率が良く、雨後の竹の子の如くパンホールが乱立した。その一つに「ロマン」という店があり、若い男が毎日何百ものサンドイッチを作っていた。普通の食パン一枚をスライスして二枚にし、間にマヨネーズとキュウリかハムを挟むだけのものであるが、食パン一枚のスライスは骨が折れる。カウンターは狭すぎるので、若い男は隣接した四畳半の畳の上でパンをスライスした。来る日も来る時も細引きの包丁で切っておればバカでもうまくなる。程なく男は店のオーナーが驚くほど正確に早くパンを切るようになり重宝された。だが、ブームはあっという間に去った。若い男はパンをスライスするという点ではいっぱしの職人になったが、ブームが去ったのでなんの足しにもならない技能者と言うことになった。男はそれから職を転々とし色々な技能を身につけたがいずれもたいしたものでなく「多芸は無芸」の代表のようになった。それから45年の月日が流れ、男は広島のある部屋でパンをスライスしていた。その手元を見つめる友人が「素晴らしい!なんてうまいんだ!」と感嘆の声を上げた。「?」友人の焼いたパンを切っていただけなのだが、彼の脳裏には電光のように45年前の光景が浮かんだ。「昔、これが仕事だったんだ」男は照れくさそうに言ったが内心得意だった。「何でもいつか役に立つモンだな」男は自分の人生がムダではなかったような気がしていた。男は65歳になり人生を終わろうとしていたが「もう一つくらい何かできるかもしれないな」と思った。長かった梅雨が明け夏空が広がる8月のことである。

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投稿日 : 2009年8月22日 (土)

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