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一人で昼食を食べるようになるかもしれない理由

  私は味に関して寛容である。要するに何でもいいのだ。「文化的でない」と私をコキおろす輩もいるが、気にならない。「何を食ったか」ではなく「何グラム食ったか」の方がはるかに客観性がある、と私は確信している。うまい、マズイなどは主観にすぎない、更に言えば偏見である。幼い頃、両親が漬け物を食べながら「おいしいねぇ〜」と言えば、その子は「ああ、これが、おいしいのか」という形で味を覚える。つまり味はひとつの知識なのだ。
各家庭で味噌汁の味が違うようだが、それぞれの家族にしてみればこれがベストの味なのだ。長年培ってきた我家の味なのだ、他人にとやかく言われる筋合いはない、文句があるなら表へ出ろ、だ。

  私は偏見もなく、知識もなく更に寛容であるから、他家の味噌汁をけなしたりはしない、どこの味噌 汁もおいしく頂く。
 同じことはレストランの定食にも言える、どこの定食もおいしい、ありがたく頂く、ただし分量については、ちょっとウルサイ。私は体積ではなく重量を重視する。陳列ケースを見て重そうな方を注文する。 こういう私の態度を見て眉をひそめる女性は多い、眉をひそめるどころかボロクソに言われる。私が何を食べようが放っておいてもらいたいが、そうはいかないらしい、人格まで否定しそうな勢いで罵られる。

  そこで狡滑な私は一計を案じた。「右隣の人と同じものを注文する」という、画期的な方法である。
 重量重視の方針はアッサリ捨てた。もともとなんでもいいのであるから、右隣だろうが左隣だろうがかまいはしない。だから右隣の人(仮にAさんとする)が注文を決めるのを待って、「私もそれと同じに」と言う。Aさんは、季節 健康 その店の特長などを勘案して慎重に決めたのであるから、完璧なオーダーであり、私はそれに追随したのであるからこれ又完璧である。

  しばらくはうまくいった、誰も私のオーダーに文句を言わなくなった。「シメシメ」と思っているうちにこのズルイやり方がバレた。Aさんが見破ったのだ。
 「アンタ、少しは自分で考えたらどうなんだ、俺と同じ注文ばかりするじゃないか」
 と、なじるのである。
 「やかましい=俺も偶然これを食べたくなったんだ!」
とは言ってみるものの図星を指されたので迫力はない、かといって自分で考えるのも面倒だ。

  私は今、三番目ルールを考案中である。メニューの上から三番目を注文するのだ、それがラーメンだろうがトンカツだろうがウドンだろうが気にしない。三番目にするか、五番目にするかという、基本的な方針は未定なので、更なる検討が必要である。

  これもいつか見破られるかもしれない、その時は、友人と食事をするのを止めようと思う。レストランへは一人で行くのだ、そして右隣で食べている赤の他人を指して
「あれと同じに」
とウエイターに言うつもりだ。    
                        
  (追記)
  A 皆さん、私ともつ鍋を食べに行った時、「味噌味にしますか、醤油味がいいですか」などと訊かないで頂きたい、私はどちらも、おいしく食べることができる人間ですから。
  B 文中のAさんの本名は山田です。

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投稿日 : 2013年2月11日 (月)

問題解決法(実践編)「ポン」について

  私は忘れっぽいと言われるが、それは違う。覚えられないのである。忘れる人は一旦覚えるハズである、そうでないと忘れることはできない。私はもともと覚えてないのであるから、私を評して忘れっぽいと云うのは当たらない。 それならどう言えばいいのか、と詰め寄る人もいるだろうが、私は答えを用意していない、自分で考え、妙案を思いついたら連絡してほしい、その表現を採用するつもりだ。

  30年くらい前になるが、私はある人とケンカした。内容は忘れたがとにかくした。温厚な私が怒鳴り声をあげ、電話をガシャンと切ったのだから、相手は相当な悪人だったに違いない。
 それからしばらくして私は平和大通りで催されるフリーマーケットに行った。ブラブラと歩いて行くと知人が店を開いている「よオー、売れてるかい」などと声をかけて二言三言言葉を交わし、陳列のしかたなどについて建設的意見を述べ、次の店へと移動した。

  数日後、車を運転していて突然思い出した、フリーマーケットの男はちょっと前に怒鳴り合ってケンカした相手だったのだ。今でこそ笑って話せるが、その時私はゾッとした。あやうくハンドルを切りそこね事故をするところだった。私は全く覚えてなかったので如才なく話せたが、相手は私より記憶力がいいので覚えていたらしい、たしかに受け答えがギコチなかった。
 つい先日怒鳴り合った相手から何事もなかったように、ニコヤカに話しかけられたら誰でも途惑うだろう。だが、私は平気であった、当然である。覚えてないのだから。
 今でもこういうことが日常起こっているのかもしれないが、確認するすべはない。

  忘れっぽいのか、覚えられないのか今やそんなことはどうでもよくなった。
  告白するが、この傾向は小学生の頃からあった。問題が起こり、悩みに悩むのだがドン詰まりまで来ると「ポン」と忘れてしまうのだ、突然心が軽くなり遊びに出かける。だから私は問題を放置したりはしない、真剣にとり組む、突き詰めて考える、そして、その先に待っている「ポン」に期待をかける。
 そして「ポン」は必ずやってくる。もし来なかったら私は10回以上自殺している。

  先日雑誌で西洋の哲学者の人生訓をみつけた。
(問題解決の一つの方法は、その問題自体を忘れてしまうことだ)
この哲学者は、私より半世紀以上も遅れているが 私は謙虚であるから何も言わない。

                                     (白方)

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投稿日 : 2013年2月11日 (月)

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