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幻の温泉

      
私はだらだらと車を走らせていた。昼下がりの村には人っ子一人いない。うだるような暑さだ。
当時私は、農村集落排水工事の仕事をしていた。その日は覆蓋の寸法を測るだけの仕事だったので、帰りに温泉に立ち寄るつもりで、いつものように車のトランクには温泉セットと着替えを積んであった。準備万端怠りない。個人的には、仕事より温泉がメインである。
それにしても、もの凄い暑さだ。まばらな人家を縫って、行けども行けども、お目当ての温泉は現れない。ボーッとしている内に、通り過ごしたのかもしれない。
珍しいことではない。私には良くあることだ。
このまま行ったら、島根県を通り越して、もうすぐ鳥取県だ。
「どうしよう」
木陰に車を止めて、右手に拡がる田園風景を眺めた。左はなだらかな斜面で、あまり裕福そうでない農家の屋根が点在している。
静かだ。限りなく静かだ。太陽は自分の力を誇示するように頭上に輝き、人間共はあばら屋の奥に逼塞しているらしい。
私は目を閉じた。こんな時は昼寝に限る。幸い微かに風がある。両側の窓を開け、ハンドルの上に足を投げ出した。リクライニングシートを倒すと風が入ってきた。極楽だ。
空には雲一つ無い。村人は全員、昼寝をしているのだろう。
どのくらい眠っただろう。ふと目を覚ましたが、辺りは眠る前と少しも変わらない。相変わらず、頭上の大木の葉を揺するわずかな風の音以外は何もなく、犬の鳴き声さえもない。
車をスタートさせる。エンジンの音がやけに大きく響く。時速30キロ。のろのろと進む。
5分も進まないうちに、左手の電柱にに小さな看板が見えた。「○○温泉」と杉板に墨で書いてあり、赤い矢印が左を指している。自分をアピールしようとする気構えが全く感じられない、みすぼらしい看板だった。
お目当ての温泉ではないが「まぁいいや」と言う気になり、矢印に沿って舗装もしていない路地を左折、2〜30メートルも行くと行き止まりになった。そこは少し広くなっており駐車場のつもりらしい。左手に大きめの工事現場みたいなプレハブが見える。入り口のガラス戸に変色した半紙大の紙がヒラヒラしている。よく見るとマジックで○○温泉。
トランクを開け、温泉セットを小脇にずいと入る。そこには期待した番台はなく、廃校から拾ってきたような机が一つ、所在なげにある。
その上に乗っかっている汚いノートを見ると、「桑田・田中」とか「滝野川・安田」などと金釘流の文字が見える。桑田は字名で田中は名前だろうと見当を付け「呉・白方」と書いた。
「こりゃ、どうも、無料らしい。大いに結構だ」
「こりゃー、村営の公衆浴場だな」
と、勝手に納得した。村民は名前を書けば無料なんだ。そうに違いない。
「おまえは村民じゃないだろう」
と言う声が聞こえたような気がしたが、無視した。それにしても汚い。床板は所々剥がれている。気を付けないと足先が引っかかり怪我をする。
「いくら無料だと言ってももう少し・・・」などと身勝手なことを思いつつ辺りを見回す。
床に竹カゴがいくつか転がっており、衣類が入っているものも見える。それに倣って裸になり、湯殿との境の引き戸を開ける。ガラガラガラとやけに大きな音だったが、中は湯気で何も見えない。暫く立ち尽くして目をこらすと、湯気の向こうに何やら見える。一歩二歩進んで分かった。
「猿だ!」
と思ったのは間違いで、御年80歳は軽く越えているであろうじいさんが三人、黙然と湯に浸かっている。ぺこりとお辞儀をしたが何の反応もない。
「若い者が、昼日中から何しに来たんだ」
と言わんばかりの渋面である。若いと言っても、当時私は50を過ぎていたはずだが・・・。
掛かり湯をしてから入ろうと、浴槽に桶を突っ込んで驚いた。
熱い!熱い!尋常ではない。
だが、私も男の端くれ、じいさん達に負けるわけにはいかない。2〜3杯かぶって、ざんぶと入った。
死ぬかと思った。喉の奥から何やら湧き上がってくるようだ。驚いた胃が逆流しているのかもしれない。
「これはヤバイ、意地を張ってる場合じゃない」
私の理性がそう叫び、一分もしないうちに飛
び出した。その時目の端に捉えたじいさんの
顔が
「ニヤリ」
と笑ったような気がした。悔しいけれど命
あっての物種。桶に水を加えながらそそくさ
と体を洗い、もう一度じいさん達にお辞儀を
して飛び出した。
その間、三匹の猿は湯の中で微動だにしない。
「あいつ等はアホか!神経が麻痺しとるんじゃないか」
心の中で毒づいたが、敗北感は拭いがたい。
車に戻りクーラーをかけ、元の道に戻った。
離合が出来ないほどの狭い道には、相変わら
ず人っ子一人いない。真昼の静寂の中を私の
オンボロ車はトロトロと走る。
暫く行くとやっと道路標識が見え「松江80
q」の文字が見える。
「やれ嬉しや」
と思った途端、また睡魔が私を襲う。車を道
ばたに寄せ目を閉じる。ほんの五分くらいだ
ったと思う。
クラクションの音で目が覚めた。後ろに大き
なミキサー車が迫っている。
私は慌てて車を出した。突然映画のフィルム
が回り出したように、車が現れ人が往来し始
めた。国道に出ると、いつものような感覚が
戻ってきた。エンジンは快調、クーラーは快
適、一路広島を目指す。腹が減ってきた。何
か食べようと思い、街道沿いのレストランを
探しつつ、温泉の名前を覚えてないことに気
が付いた。どんなに頭をひねっても思い出せ
ない。そのうち諦め、そのまま今日に至って
いる。後で地図を見たのだが、分からない。
私はどこへ行き、何という温泉に入ったの
だろう?
あの猿たちは本当に居たのか?
何故あの村には人っ子一人いなかったのか?
あの村は本当にあったのか?
真夏の午後、もう一度あの村へ行きたい。
無人の村を歩いてみたい。
みすぼらしい家並みを見たい。
わずかな風を感じながら昼寝をしたい。
毎年、夏になると、そう思う。

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投稿日 : 2011年2月05日 (土)

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