私は絶対悪くない
私は鼻の状態がよくないので、医者が処方した薬を食後に飲んでいた。誰でもそうだと思うのだが、よく、飲むのを忘れる。
私はそんな時、職場の隣の人(仮にYさんとする)をなじる。
「なんで飲むように注意してくれなかったんだ!」
Yさんは驚き
「そんなこと言ったって・・・」
と、仏頂面をする。
「俺が食後に薬を飲んでいることは知っているだろ!」
「はい」
「それなら(お薬の時間ですよ)とかなんとか 言ってくれてもいいだろ!」
「知りませんよ、そんなこと。自分のことは自分でやってください」
と、にべもない。だが、少々私のことを可哀そうな老人だと思ったのか
「分かりました、注意してあげます。そのかわり、食事が終わったら (終わりました)と、私に報告してください」
と言った。
これは非常に理にかなった提案だと思うので、受け入れたが私が食事終了の報告を忘れるので、効果を発揮していない。これはこの提案をしたYさんの責任であると私は思う。
人は責任転嫁をする動物である。
(ゴリラが責任転嫁をしているのを、私は見たことがない)
シカゴギャングの親玉アル・カポネが、セントバレンタイン大虐殺の後逮捕された時
「私は気弱なやさしい男なんだ」
と言ったそうだ。(多分、ジョークだと思う)
ベビーフェイスネルソンが捕まった時も
「僕は何もしないのに、みんながいじめる」
と泣き喚いたんだそうな。(勿論私は泣きわめく現場を見ていない)
自分に不都合なことが起きたら、ことほど左様に人は責任転嫁をする。自分は正しい、自分以外の誰かが悪いのだと思いこむ。だからケンカは正しい人同士がやる。互いに目の前の相手をなじる。陰でこそこそ避難する時もある。
人類等しくそうである。だから私もそうだ。故に私は人類である。
心から自分が悪いと思っている人がいれば、その人は神様と
呼んでもいい。その人は誰とも争わないだろう。悪人なんだから。(神様は悪人か?)
ケンカと言うものは、戦争も含めて、どちらが悪いかと言う議論に決着をつけるためのものである。だから国際法では「戦争は紛争解決の手段」と位置付けられ、「悪」とは考えない。心から「自分が悪い」と言う人がいれば、それはもう決着がついたと同じであるから争いはない。
親鸞に「悪人正機説」という教えがある。高校の教科書くらいで教わるから皆さんもご存じだろう。簡単に言えば、仏は善人よりも悪人の方を救ってくださる、と言うものだ。若いころは(そんなアホな)と思っていたが、この年になってやっと分かった。
理由は上に述べた通りである。
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投稿日 : 2013年8月14日 (水)