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パンホール

昭和30年代、松山市で突如「パンホール」がブームとなる。なぜそうなったかは今も分からないが、猫も杓子も朝になるとサンドイッチを食べコーヒーを飲みそれがオシャレとされた。もちろん自宅でではない。パンホールと呼ばれる小さな喫茶店で止まり木に座ってである。長居はしない。食べたらビジネススーツを風になびかせ颯爽と席を立たなければ「オシャレ」ではない。従って客の回転率が良く、雨後の竹の子の如くパンホールが乱立した。その一つに「ロマン」という店があり、若い男が毎日何百ものサンドイッチを作っていた。普通の食パン一枚をスライスして二枚にし、間にマヨネーズとキュウリかハムを挟むだけのものであるが、食パン一枚のスライスは骨が折れる。カウンターは狭すぎるので、若い男は隣接した四畳半の畳の上でパンをスライスした。来る日も来る時も細引きの包丁で切っておればバカでもうまくなる。程なく男は店のオーナーが驚くほど正確に早くパンを切るようになり重宝された。だが、ブームはあっという間に去った。若い男はパンをスライスするという点ではいっぱしの職人になったが、ブームが去ったのでなんの足しにもならない技能者と言うことになった。男はそれから職を転々とし色々な技能を身につけたがいずれもたいしたものでなく「多芸は無芸」の代表のようになった。それから45年の月日が流れ、男は広島のある部屋でパンをスライスしていた。その手元を見つめる友人が「素晴らしい!なんてうまいんだ!」と感嘆の声を上げた。「?」友人の焼いたパンを切っていただけなのだが、彼の脳裏には電光のように45年前の光景が浮かんだ。「昔、これが仕事だったんだ」男は照れくさそうに言ったが内心得意だった。「何でもいつか役に立つモンだな」男は自分の人生がムダではなかったような気がしていた。男は65歳になり人生を終わろうとしていたが「もう一つくらい何かできるかもしれないな」と思った。長かった梅雨が明け夏空が広がる8月のことである。

投稿日 : 2009年8月22日 (土)

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