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堅気について

 
(これはある座談会の為に話題提供として書いた物です)

「あの人は堅気(かたぎ)だから」
この言葉をよく聞いた。
(手出しをしてはいけない)という意味のような気もした。
(いざというときには、頼りにならない奴だ)という意味の時もあった。
(違う世界の人なのだ)と子供である私に言い聞かすつもりで言ったのかもしれない。
とにかく良く聞いた。何度も何度も聞いた。今もその意味は分からない。

(かたぎ)でない人は、我々旅芸人であった。
それはどんな人達だったのか、思い出してみよう。

嘘をつく(と言われる)。
「ちょいと百円貸してくれ、次の巡業先で払うから」だが、払わない。
「金がない」と彼は言う。それは本当だ。
(次の巡業先で払うから)という言葉は嘘ではない。本当にそう思っているのだ。
(金がない)というのも嘘ではない。本当に持ってないのだ。
だから、彼は嘘つきではない。だが、世間は嘘つきだと非難する。
彼は「世間の奴は分からず屋だ」とつぶやく。

時間を守らない。
8時に集まれと言われていても、遅れる。
「起きられなかった」と言う。
「眠かったんだ」という。
眠かったのは7時頃であり、集合時刻は8時である。寝床にいる男にとって、7時は今であり、集合は未来のことである。だから、今が優先する。将来のために、今を犠牲にはしない。

わずか100円を返すこと、8時に集合すること、病気や怪我に備えてわずかな蓄えを作ること。これらは普通の人にとっては、ごく「平凡」なことである。だがその平凡を実行しない。出来ないのかもしれない。
理由はともかく、彼らは次第に社会からドロップアウトしていく。その内の幾人かは芸人の世界に落ちてくる。釜ヶ崎に済むモノも居れば、山谷のドヤに居着くモノもいる。
彼らは平凡を行わない者を非難しない。金を返さない者の気持ちがよく分かるのだ。でも金は必要だ。返してもらえないと、今日のおまんまが食えない。そこで、彼は別の仲間から借りて、その日を過ごす。貸してくれた仲間は、又別の仲間から借りる。こうして借金の連鎖は果てしなく続く。

時々この連鎖を断ち切る者が現れる。それはいささかの蓄えを持つ「平凡」な人である。
私の祖父はそのような人であった。平凡であるに過ぎないのだが、社会の底辺にうごめく旅芸人の世界では抜きんでて頼りになった。約束を守るだけでヒーローになれるのだ。彼の周りに「平凡を実行出来ない者」が集まり、担ぎ上げられ太夫元(劇団のオーナー)になった。いささかの侠気を持った成田屋鯉之助の誕生である。

普通の人は「平凡」を文字通り「平凡」だと思う。やる気にさえなれば容易に達成出来る事柄だと思う。平凡の頃合い、手加減、程度、種類については諸説あるだろうが、「平凡なこと」が出来ないとは思っていない。だが芸人にとって、それは高嶺の花である。あなたが地面だと思うところは、彼らにとって天井なのだ。
彼らは無能なのだろうか。私には表現の方法が見つからない。

彼らは貯金をしない。将来のために、今の快楽を犠牲にするという発想は持っていない。
今日が全てである。今日一番大事なことには命だって賭ける。些細なことで刃物を持ち出す。普通の人は些細なことで怒るな、という。だが、彼にとっては些細なことではない。バカにされたのだから、許してはおけない。「河原乞食」と言われたのだから、仕返しをしなきゃ腹の虫が治まらない。明日は息子の入学式だが、そんなことはどうでもいい。今だ、今だ、今やり返さなきゃダメなんだ!

明日よりも今日を大事にするのだから、将来のために今の怒りを抑えることはしない。
だからよくケンカをする。普通の人から仲間がバカにされたら、途方もなく激高する。
そこが食堂であろうが、他人の家であろうがとんでもなく荒れる。堅気の人は荒れ狂わない。一緒に怒ってくれない。だから(堅気は頼りにならない)のである。
「お前の気持ちはよく分かる・・・だが、ここは押さえて・・我慢して・・」
等となだめる普通の人を嫌う。普通の人は(堅気でない人)を手に負えない奴だと思い
離れていく。

私が堅気でない人から離れて、半世紀以上が過ぎた。私はもう立派に(堅気の人)だ。
楽々と「平凡」を行うことが出来る。こんな座談会でもなければ、(堅気でない人達)を
思い出すこともなかったろう。だが、こうやって書いてみて気が付いた。
私の中にはあのヤクザな人達への親愛の情が残っているようだ。

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投稿日 : 2013年12月22日 (日)

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