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私のテネシーワルツ

テネシーワルツは私にとって特別な歌である。パティ・ペイジの歌う「テネシー」は今なお、何度聞いても「ちぇなしぃ」としか聞こえないが、あの曲がヒットした昭和26年を思い出させてくれる。
I was dancin' with my darlin' To the Tennessee waltz, When an old friend I happened to see. Introduced her to my loved one, And while they were dancin',My friend stole my sweetheart from me. I remember the night, And the Tennessee waltz, Now I know just how much I've lost, Yes I lost my little darlin',The night they were playin', To the beautiful Tennessee waltz .
私は大好きなあの人と、テネシーワルツを踊っていた。そのとき古い友達にばったり出合ったので、私の愛しい人を紹介した。 彼と彼女が一緒に踊っているうちに、私の友人は彼氏の事を私から奪っていってしまった。 あの夜の事を、テネシーワルツを、決して忘れはしない。今になって、失ったものがどんなに大きいものだったかが痛いほど心にしみてくる。そう、あの夜に、私は愛しいあの人を失った。あの人たちが、テネシーワルツの美しい調べに併せて戯れていた、あの夜に。。。。

昭和26年にサンフランシスコ講和条約が調印され、ソビエトや中国との平和協定は後回しにされたとは言え、日本は占領下の抑圧から解放された。この開放感はテネシーワルツと共に小学生であった私の元にやってきた。“戦い越えて立ち上がる緑の山河雲はれて、今蘇る民族の若い血潮にたぎるもの、自由の翼空を行く、世紀の朝に栄あれ”と日教組が作った新国歌を平屋の木造校舎で声を張り上げて歌ったものである。今でもこの歌は好きだ。
国中が恐ろしく貧しいけれど、明日は何とかなりそうな気がしていた。
片方では前年の昭和25年、朝鮮戦争が勃発、日本は軍需景気に湧いていたことも忘れてはならない。この時に蓄えた資本で日本は経済的に飛躍した。経済学者ロストウの言う「離陸」である。
この飛躍は韓国の犠牲のおかげであると言っては言い過ぎであろうが、未だにその感はぬぐえない。あのときマッカーサー率いる米軍が釜山で陥落し、100万の中国軍が怒濤の南下をしていたらていたら、現在のアジア情勢は全く違ったものとなり、北朝鮮のミサイルは容易に北九州へ届いていただろう。戦局を大転換させた優秀な戦闘機「スーパーセイバー」はその名の通り「救世主」であり、私は木を削ってこの素晴らしい戦闘機の模型を作った。
自衛隊の前身「警察予備隊」が出来たのもこの年であり、反対勢力のデモの後に聞こえていたのはテネシーワルツである。
日本では江利チエミが14才でこの歌を歌い大ヒットさせていたが、全米ヒットチャートを独走していたパティペイジには敵わない。(のちにこの歌はテネシー州の州歌になったそうである)
プロレスの力道山がブランズ戦でデビューしたのもこの年である。空手チョップでバッタバッタと外人レスラーをやっつけ、日本中が湧いた。小学校の廊下に毎日新聞ニュースが張り出された。そこには毛むくじゃらの大男が真横になって空中を飛んでいた。タッグマッチの王者ベンシャープの跳び蹴りである。私は驚愕した。そしてシャープをたたきのめす力道山に拍手した。しかしBGMはテネシーワルツであった。よく考えてみれば妙な取り合わせである。
翌27年白井義男がダド・マリノを破りフライ級の世界チャンピオンになり、敗戦で疲弊していた日本人に勇気を与えた。白井は米軍の軍属カーン博士に見出され、徹底的な食事管理とアウトボクシングをたたき込まれ、打っては引くヒットアンドアウェイの戦法により頂点を極めた。派手なノックアウトが少ないので消化不良の感じはあったが、彼が偉大なボクサーであることは間違いない。瞼から血を流しながら右手を突き上げる彼のバックには、テネシーワルツが流れていた。
この年、ヘルシンキオリンピックが開かれ日本は戦後初めてこれに参加した。16年ぶりのことである。フジヤマのトビウオの異名をほしいままにし、何度も1500メートル自由形水泳の世界記録をたたき出した古橋広之進も、盛りを過ぎており8位に終わった。この時、実況を担当したNHKの飯田アナウンサーが涙声で「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないで下さい。偉大な古橋の存在あってこそ、今日のオリンピックの盛儀があったのであります。古橋の偉大な足跡を、どうぞ皆さま、もう一度振り返ってやって下さい。そして日本のスポーツ界と言わず、日本の皆さまは暖かい気持ちを以て、古橋を迎えてやって下さい」と述べたであった。こんな実況放送は二度と無いだろう。オリンピックと聞くと、まず思い出すのはいまだに「ヘルシンキ」である。
とにかく、日本は上を向いていた。果たせるかな、数年後の昭和30年、経済白書に「もはや戦後ではない」の文字が躍る。国民総生産額が戦前の水準に戻ったのである。
こうして日本は長嶋茂雄や石原裕次郎と共に高度成長の階段を駆け上がる。
これら一連の出来事のバックには、いつもパティペイジの舐めるような巻き舌の「ちぇなしぃワルツ」が流れていた。だからこの曲は(私の)テネシーワルツなのである。                    白方 記

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投稿日 : 2015年9月13日 (日)

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