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天野森蔵

私の祖父は世間で言う遊び人だった。周りには妙な人物が多かった。その中にみどりさんと呼ばれる女性(?)がいたが、どうみても女ではなかった。ぞろりとした着物を着て確かに言葉遣いは女であるが、声音は男であり喉仏も出ている。あまり親しくはなかったがその日何かの弾みで祖父と話し込んでいた。もうすぐ春という頃の昼下がりである。縁側に日が差し込み私は半分眠りながら絵本を見ていた。
「ほほー、・・・で、あんたの本名はなんというのかね」
祖父が訊いた。
「天野森蔵」
おじさんは素っ気なく答えた。
「戦時中は何をしとったんぞな?」
祖父はたたみかけた。
「憲兵じゃった」
その時の祖父のいやーな顔を忘れることはできない。
祖父は遊び人ではあったが忠君愛国の権化のような人であった。そのせいかどうかこの手の人物を許せなかったらしい。
「ワシはちょっと用事を思い出した。出かけるけん」
祖父はそそくさと出て行き、みどりさんは取り残されてポカンとしていた。
以来、森蔵さんは我が家に現れることはなかった。
オカマでも犯罪者でも受け入れた祖父であったが、オカマと国家の組み合わせだけは許せなかったらしい。森野のおじさんにも言い分はあったのだろうが今となっては訊くすべはない。
人間のプライドとか矜持などと言うものもこのことと大同小異だと思う。
要するに「たいしたことではない」のだ。

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投稿日 : 2009年12月31日 (木)

冬至

ゆず湯にも入らず、カボチャも食べなかったが何事もなくその日は過ぎていった。

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投稿日 : 2009年12月27日 (日)

成長戦略

10/14 こう書いた。
もうしばらくすると経済規模拡大政策の不在に気が付く。
・・・と。
数日前から
「経済のパイを大きくする戦略がない」
と、評論家が言い出した。
予算が決まった一昨日からその声は大きくなった。
目標設定もなく仕分けをした諸君!
ご苦労であった。
もう出てこなくてもよろしい。
どのような社会を作るのだというビジョンが先ず存在する。
そのためにはこれを切って、これを残し、来れに予算をつけるという議論が始まる。・・・・はずだ。
・・・が、そうでなかったことに世間は気が付いた。
気付かないよりはまし。
いまさらなにを、と言いたいところだが我慢しよう。
待ってます。
成長戦略を!

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投稿日 : 2009年12月27日 (日)

傍観

久しぶりに韓国へ行った。20年ぶりくらいだろう。
ダウンタウンは東京の日本橋のようだ。広島の紙屋町のようだと言ってもいい。文字がハングルであることを除けば日本の町並みによく似ている。
昔は韓国の空港にはキムチの臭いがあふれていたが今はない。聞けば若者のキムチ離れがあるそうだ。
そこでこう思った。
大昔、世界の人々は富士山のような山の裾野にバラバラに住んでいた。エジプト人は中国を知らず、ジャワの人は日本の大和朝廷を知らなかった。そして彼らはそれぞれに頂に向かって歩を進め初めた。最初は遠く離れているので自分の他に誰が登り始めたのか分からなかったが、登るにつれて左右の登山者が見えてくる。登り方も装備も違うので戸惑うが、次第にお互いのよいところを真似するようになる。負けるものかという気にもなる。頂上が近づくにつれて、お互いによいと思うところを取り入れるので登山者全員が似てくる。個性が無くなると言ってもよい。その結果、頂上に立った時はみんな同じ服装と装備になっているだろう。同じ貨幣を使い、皮膚の色だって同じになっているかもしれない。
今年の初めニューヨークへ行ったが、私には異国に来た違和感がなかった。30数年前に見た輝けるアメリカはなかった。人は国ごとの個性を捨てながら発展している。いずれ世界は単一の経済圏になるだろうが、その是非を論じるつもりはない。私の意見を無視して歴史は進む。
私にできるのは「傍観」のみである。

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投稿日 : 2009年12月19日 (土)

坂の上の思い出

東京本郷西の住宅街の中に「炭団(たどん)坂」という妙な名前の急坂が今もある。それを登り切ったところに常磐舎はあった。愛媛県から上京し、勉強しようとする藩の子弟の為、篤志家の浄財により明治の初めに建設された賄い付き下宿である。戦後東京都北多摩郡久留米市に移転し名前も「常磐学舎」と改められたが、その歴史は今も続いており、昭和30年代には私も寮生の一人であった。
昔の常磐舎の跡地は現在日立の厚生施設になっており、数年前、世話をしてくれる人がいて寮の同窓会がここで開かれた。
その時先輩から一枚の写真を見せられた。木造二階建ての屋根の上に若者が鈴なりになっている。
「これが正岡子規だ。となりが漱石だ」
もう一人の先輩が続ける。
「後の舎監は秋山好古だぞ」
今の舎監は立教大学教授で原子物理学の大家。運の悪い事に名前が私と同じ白方。どうしても比較されて肩身が狭い。後輩にも錚々たる人物が居並び我々同期はくすんでいた。

大河ドラマ「坂の上の雲」を見ていて昔を思い出した。誇るべきものは何も残せなかったが、あの常磐学舎に私の青春はあった。あのころ坂の上には暗雲が立ちこめ何も見えず、思い出して今確かに言えることは、テレビに出てくる秋山兄弟の住まいよりも私が住んでいた部屋の方が遙かにオンボロだったと言うことだけである。

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投稿日 : 2009年12月06日 (日)

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