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旅を栖とす


                  旅を栖とす

月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。・・・と芭蕉はのんきなことを言う。
船頭も馬子も帰る家がある。貧しくても家族が待っている。
「船頭よ、お前は今人生を旅しているのだ」
と教えても、船頭は
「はぁ?」
てなもんであろう。
「お前の栖は旅の中にあるのだ」
「うんにゃ、おらの家は三日月村だっぺ。かかぁが待ってるからちょっくら失礼」
こうなるのは火を見るより明らか。
芭蕉は勝手に家を出たのである。追い出された訳ではない。誘われたのだ。誘ったのは「片雲の風」だそうだから責任は問えない。

だが・・・本当に旅をすみかとしている者はいたのである。
人はそれを「旅芸人」と呼んだ。政府は住民票の他に、「この者は芸人である」事を証明する鑑札のようなものを発行した。すみかを定めない旅芸人の社会には、犯罪人や政府転覆を企図する者たちが隠れ住んでいたので、只の芸人とそのような者たちを識別するための方策として、この鑑札は発行されたらしい。犯罪人や革命家でなくても、みんなスネに傷を持っていた。帰る場所がないから、さげすまれながらも旅をしているのである。彼らは世間のはみ出し者に厳しくない。明日は我が身、と思うからだろうか。犯罪者にとって芝居小屋は居心地が良かったのだ。

戦前は、なんと言っても「芝居」が娯楽の中心だった。ラジオもテレビもないのだから当然と言えば当然。
他には「丁半博打」があるがこれは御法度だから数えてはいけない。無声映画が人気を博しても、その物語をいち早く取り入れて演じるので、相乗効果となる。村の鎮守の祭りには必ず「芝居」が掛かった。青年団が演じる素人芝居から、プロを呼んでの本格的なものまで上演され、村は沸き立つ。夜九時から始まって、明け方の三時までなどというのはざらにあった。旅芸人たちの稼ぎ時なのだ。

だが・・・敗戦となる。
GHQはデミング博士を本国から連れて来て、日本中にラジオを普及させた。占領軍の威令をスピーディに全国に行き渡らせるためである。おかげで、日本の品質管理は飛躍的に向上する。60代半ば過ぎの方は、幼い頃、鉱石ラジオを作った経験があるはずだ。それが占領政策の一環だとは知らずに、私も夢中になって作ったものである。真空管ラジオを通じて、アメリカ文化が怒濤のように押し寄せてきた。娯楽は多様化を始め、芝居の地位は相対的に低下した。つまり、客が集まらず兼業を余儀なくされるようになった。芝居で飯を食っていた者にとっては「経済構造の激変」である。

彼らは今更故郷へ帰ることは出来ない。そこで、故郷でない場所で仕事を探し落ち着く。しかし、「巡業へ行こう、吉田村と久谷村から来てくれとのことだ」などと声が掛かると、仕事を放り投げて成田屋鯉之助一座にはせ参じる。パートタイムジョブのようなものである。どちらがパートかというと判定は難しい。勢い、堅気の仕事には就けない。風呂屋の釜焚き、リンタク(人力車を自転車で引くもの)・土工(一日240円なのでニコヨンとも呼ばれた)、パチンコ屋の裏方(今のコンピューター管理と違い、玉の供給は人力であった)掃除夫、女給(この言葉は死語になったようだ)、ETC、エトセトラ。どこまで行っても半端物は半端物。

お構いなしに時代は進む。テレビが普及し、力道山がシャープ兄弟を空手チョップでなぎ倒すシーンに、日本人は熱狂した。芝居の地位は更に低下する。彼らも年を取り後継者はいない。こうして旅芸人は消えた。今残っているのは、「芸人」であり「旅芸人」ではない。
「人は旅をすみかとしている」と喝破した芭蕉は歴史に名を残したが、本当に旅を栖とした旅芸人は何も残していない。成田屋鯉之助とは私の祖父である。

                                       以上

投稿日 : 2011年5月22日 (日)

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