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男になった佐和さんのこと



  その人の名は佐和代といった。苗字は忘れた。ずんぐりした体型で、のっぺりした顔がその上に乗っかっていた。色は黒くどこから見ても田舎のおばさんである。今も愛媛県内子に住んでいるはずだ。生きていれば百歳に近い。

  佐和代さんは田舎が嫌い。野良仕事がいやで、村から逃げ出す機会をうかがっていたが、村に旅役者の一座がやってきたのを好機と思い、一座の太夫元(オーナー)である私の祖父の元に転がり込んだ。旅の一座を率いているとこういうことはままある。田舎丸出しの女でも夢は見る。きらきらした衣装を身につけて、舞台で見得を切りたかったのだろう。受け入れた私の祖父は成田屋鯉之助というという、芝居の世界では少しは知られた顔であった。なぜだか知らないが、家族は佐和代を返せとは言わなかった。

 佐和さんは芸事は好きだが、いかんせん才能がない。田舎芝居の座長如きが偉そうに、とあなたは思うかも知れないが、私の祖父には人を見る目が備わっていた。他のことなら努力すれば何とか様になる。だが芝居は別だ。努力でどうにかなるモノではない。

 佐和代さんは一座の中では「さーチャン」と呼ばれていた。実はもう1人さーちゃんという座員がいた。 この2人の折り合いが悪い。2人とも才能がない。一年ほどで祖父(成田屋)は2人とも首にした。

 佐和さんはあっさりした性格で、短い間だが寝起きを共にした座員達に笑いながら手を振り、風呂敷包み一つを持って、ふるさとの内子へ帰っていった。それから程なくして
 「さーちゃんが結婚した」という噂が流れてきた。
 「ほほーそれは良かった」座長は心から喜んだ。佐和さんは3人の子どもに恵まれ、貧しいながらも平穏な生活を送り、子どもの手を引いて一座に遊びに来たこともある。

 終戦となり、戦後のどさくさでお互いの消息が途絶えて数年の後、佐和さんはひょっこり男になって我々の前に現れた。髪はオールバック、ワイシャツに灰色のズボンをはいている。
 「なんちゅう恰好しとんじゃ」祖父は仰天した。
 「ワシ、嫁もろた」ズボンのポケットに手を突っ込んだまま佐和さんは言った。
 「何じゃと!子どもはどうした?」

 「向こうへ置いてきた」佐和さんはこともなげにそう言ってタバコを吹かした。
 祖父(成田屋鯉之助)は絶句した。こういう手合いが市民権を得たのはごく最近のことである。当時はとんでもないことだった。しかし、そのトンでもないことが目の前に居る。
 「そういうことはするな」
 「もう結婚したんじゃからしょうがない。これからは松山に住む。内子にはおられんけん」
 とりつく島がないとはこういうことで、芝居の世界ではかなりの顔役であった祖父は、佐和さんの前に完敗した。

 あの人は男か女か・・・私は興味津々であった。「男おばさんが来たよ」と母に言われると見に行った
 モノである。おばさんの前では「男おばさん」とは言わない。「内子のおばさん」と呼ぶ。本人は「おじさん」と呼ばれたかったのかも知れない。

 ある日の夕暮れ、佐和さんは街角に佇んでいた。少し夕焼けで佐和さんの顔の半分は赤く染まっていた。 逢魔が時である。グレーのズボンに白いシャツ。左足を少し前に出し「休め」の姿勢のまま、通りの反対側を見つめていた。そこには敗戦後の焼け跡に建ったバラックの間に現れた小さなキャバレーがあった。名前は「モナミ」緑のペンキで書いたその名をハッキリと覚えている。街の名は千舟町。この街は今もある。

 佐和さんはタバコを吹かしながら、いつまでもキャバレーを見ていた。そして、少し後で見ていた私を振り返り、モナミを指差しながら「ワシの女があそこで働いとるんよ」と言った。私は辺りが暗くなってきたのでそっと家へ帰った。

 後年、私は何度もこの光景を思い出したが、何故思い出すのか分からなかった。佐和さんの波乱の人生があの一枚の画のような光景に凝縮されていたんだと言うことに気がついたのは、私が50歳を超えてからのことであった。

  (先年、私は内子で開かれた同窓会に参加した。当時の芝居小屋は復元され街の観光スポットになっていた。芝居の上演中、花道の奥に憲兵が座り、反戦的な芝居かどうかをチェックし、気にいらないときは「中止」と叫ぶ憲兵の椅子も忠実に復元されていた。案内人のお兄ちゃんは何でこんな所に椅子があるのか知らない様子で、なんの説明もしてくれなかった)
                                           2020. 8.26

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投稿日 : 2020年11月02日 (月)

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