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問題解決法(実践編)「ポン」について

  私は忘れっぽいと言われるが、それは違う。覚えられないのである。忘れる人は一旦覚えるハズである、そうでないと忘れることはできない。私はもともと覚えてないのであるから、私を評して忘れっぽいと云うのは当たらない。 それならどう言えばいいのか、と詰め寄る人もいるだろうが、私は答えを用意していない、自分で考え、妙案を思いついたら連絡してほしい、その表現を採用するつもりだ。

  30年くらい前になるが、私はある人とケンカした。内容は忘れたがとにかくした。温厚な私が怒鳴り声をあげ、電話をガシャンと切ったのだから、相手は相当な悪人だったに違いない。
 それからしばらくして私は平和大通りで催されるフリーマーケットに行った。ブラブラと歩いて行くと知人が店を開いている「よオー、売れてるかい」などと声をかけて二言三言言葉を交わし、陳列のしかたなどについて建設的意見を述べ、次の店へと移動した。

  数日後、車を運転していて突然思い出した、フリーマーケットの男はちょっと前に怒鳴り合ってケンカした相手だったのだ。今でこそ笑って話せるが、その時私はゾッとした。あやうくハンドルを切りそこね事故をするところだった。私は全く覚えてなかったので如才なく話せたが、相手は私より記憶力がいいので覚えていたらしい、たしかに受け答えがギコチなかった。
 つい先日怒鳴り合った相手から何事もなかったように、ニコヤカに話しかけられたら誰でも途惑うだろう。だが、私は平気であった、当然である。覚えてないのだから。
 今でもこういうことが日常起こっているのかもしれないが、確認するすべはない。

  忘れっぽいのか、覚えられないのか今やそんなことはどうでもよくなった。
  告白するが、この傾向は小学生の頃からあった。問題が起こり、悩みに悩むのだがドン詰まりまで来ると「ポン」と忘れてしまうのだ、突然心が軽くなり遊びに出かける。だから私は問題を放置したりはしない、真剣にとり組む、突き詰めて考える、そして、その先に待っている「ポン」に期待をかける。
 そして「ポン」は必ずやってくる。もし来なかったら私は10回以上自殺している。

  先日雑誌で西洋の哲学者の人生訓をみつけた。
(問題解決の一つの方法は、その問題自体を忘れてしまうことだ)
この哲学者は、私より半世紀以上も遅れているが 私は謙虚であるから何も言わない。

                                     (白方)

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投稿日 : 2013年2月11日 (月)

幻の温泉 その2


その日は晴天だった。
車はだらだらと坂道を登っている。
岡山県の山の中である。
私は半分眠っているが、平々亭青馬(へいへいていぶるま)君は
辺りに気を配りながら運転している。
彼は落語家である。
だから愛想が良く面白い。運転もうまい。
「白方さん、ありませんよ、温泉」
「う〜〜〜ん、無くても良い。気にするな」
「気にするなと言っても、私たちは温泉に入りに来たんですから」
「君はどうも人生を固定的に考える癖がある。そのことが自分を苦しめる。
 改めたほうがいいぞ。着いたところが目的地だったと言うことにすれば
 失敗はない」
「は〜〜〜、そうですか」
そうは言うが、彼は私の言うことに納得した気配はない。
しばらく黙って車を走らせた。
私は再びまどろんだようだ。
「あっ!ありました、ありました!」
「おっ、着いたか」
私は目を覚ます。
「ありゃ、違いますねーこりゃ。ちがうちがう、別の温泉だ」
「違ってもいい、ココなんだよ。俺たちが探していた温泉は」
「は〜〜〜ぁ」
「さっき言ったろう、着いたところが目的地だって」
「・・・・・えっ。あ〜そうですね。そうだそうだ。僕たちはココが目的地だったんだ」

噺家だけあって極めて軽い。自説を曲げて後悔することがない。
○○温泉の看板に沿って右折し、小さな川を渡った。
また○○温泉の看板が現れる。よしよし間違いないな。
だが車は小さな団地の中に入っていく。
「????」
おかしいなと思っているうちに到着してしまった。
団地によくある普通の住宅に「○○温泉」の看板が昼下がりの青空にクッキリと映えている。
その向こうの住宅にも同じ看板が・・・。
向こうの方は(休み)と書いてあったので、手前の住宅の戸を開ける。
まさかココが温泉だとは、その時思わない。
温泉への道順を訊こうと思ったに過ぎない。
ガラガラガラと玄関に入り
「こんにちわ」
と言う。温泉ではこうは言わない。
普通の貫禄十分のおばさんが出てくる。
「あの〜〜」
そこまで言うとおばさんはニッコリして
「いらっしゃい」
と満面の笑み。
「温泉は?」
「はい、どうぞお上がり下さい」
私は落語家と顔を見合わした。
(おい、どうもココが温泉らしいぞ)
(そりゃないでしょう、ココは普通の家ですよ)
(だっていらっしゃいと言ったぞ)
(そうですねー、でもまさか温泉じゃないでしょう)
我々の目は、瞬時にそんな会話を交わした。
「いくらですか?」
「700円です」
高い。だが値段を言うのだから温泉なんだろう。
靴を脱いで普通の下駄箱に靴を入れた。
「はい、こちらです」
おばさんは普通の家の中を案内する。
玄関をちょいと左に行くと、そこには普通の家の普通のお風呂がある。
当たり前だ。我が家にもある。
我が家の脱衣場程度の脱衣場で服を脱ぎ、湯殿に入る。
そこには無理をすれば3人くらいは入れそうな湯船があった。
矩形であったから3人は入れるかどうか自信はない。
つまり我が家の湯船よりは少し大きいのだ。
要はそれだけで、他には何の変哲もない。
麗々しく湯の効能などを掲げた看板もない。
体を洗う。二人は無言である。
沈黙に絶えかねた落語家が言う。
「こりゃ、何なんですかねー」
「う〜〜〜〜む」
何にでも理屈をくっつける私も言葉がない。
「700円は高い」
それだけ言うのがやっとだった。
湯の肌ざわりがいかにも温泉らしければ、コメントのしようもあるが
それもない。
普通の風呂に入り、体を洗い、普通に出た。
脱衣場に「カラオケルーム」の表示があり矢印があった。
落語家は
「ちょっと見てきます」
と探訪に行ったが直ぐ帰ってきた。
「ありました、8畳くらいの座敷にカラオケセットが・・・。仏壇もあります」
我々は言葉を無くし、
「ありがとうございます」
とお礼を言って○○温泉をあとにした。
おばさんが満面の笑みで送ってくれたのは言うまでもない。

随分時が経ってから、我々はあの温泉の思い出を語り始めた。
「あの隣の温泉へ行ってみたいですねー」
平々亭青馬がいう。
「うん、そうだなー。同じなんだろうか、少しはましなんだろうか」
「ところで、何という温泉でしたっけ?」
ここに至って私は温泉の名を覚えていないことに気が付いた。
「あれ?君は覚えてないの?」
と私。
「いいえ、全然」
落語家は胸を張る。
「頼りにならんなー」
と私
「白方さんに言われたくありませんよ」
落語家はにべもない。

読者諸君、ご存じありませんか?
岡山空港からそう遠くはないと思うのですが・・・。


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投稿日 : 2011年11月6日 (日)

旅を栖とす


                  旅を栖とす

月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。・・・と芭蕉はのんきなことを言う。
船頭も馬子も帰る家がある。貧しくても家族が待っている。
「船頭よ、お前は今人生を旅しているのだ」
と教えても、船頭は
「はぁ?」
てなもんであろう。
「お前の栖は旅の中にあるのだ」
「うんにゃ、おらの家は三日月村だっぺ。かかぁが待ってるからちょっくら失礼」
こうなるのは火を見るより明らか。
芭蕉は勝手に家を出たのである。追い出された訳ではない。誘われたのだ。誘ったのは「片雲の風」だそうだから責任は問えない。

だが・・・本当に旅をすみかとしている者はいたのである。
人はそれを「旅芸人」と呼んだ。政府は住民票の他に、「この者は芸人である」事を証明する鑑札のようなものを発行した。すみかを定めない旅芸人の社会には、犯罪人や政府転覆を企図する者たちが隠れ住んでいたので、只の芸人とそのような者たちを識別するための方策として、この鑑札は発行されたらしい。犯罪人や革命家でなくても、みんなスネに傷を持っていた。帰る場所がないから、さげすまれながらも旅をしているのである。彼らは世間のはみ出し者に厳しくない。明日は我が身、と思うからだろうか。犯罪者にとって芝居小屋は居心地が良かったのだ。

戦前は、なんと言っても「芝居」が娯楽の中心だった。ラジオもテレビもないのだから当然と言えば当然。
他には「丁半博打」があるがこれは御法度だから数えてはいけない。無声映画が人気を博しても、その物語をいち早く取り入れて演じるので、相乗効果となる。村の鎮守の祭りには必ず「芝居」が掛かった。青年団が演じる素人芝居から、プロを呼んでの本格的なものまで上演され、村は沸き立つ。夜九時から始まって、明け方の三時までなどというのはざらにあった。旅芸人たちの稼ぎ時なのだ。

だが・・・敗戦となる。
GHQはデミング博士を本国から連れて来て、日本中にラジオを普及させた。占領軍の威令をスピーディに全国に行き渡らせるためである。おかげで、日本の品質管理は飛躍的に向上する。60代半ば過ぎの方は、幼い頃、鉱石ラジオを作った経験があるはずだ。それが占領政策の一環だとは知らずに、私も夢中になって作ったものである。真空管ラジオを通じて、アメリカ文化が怒濤のように押し寄せてきた。娯楽は多様化を始め、芝居の地位は相対的に低下した。つまり、客が集まらず兼業を余儀なくされるようになった。芝居で飯を食っていた者にとっては「経済構造の激変」である。

彼らは今更故郷へ帰ることは出来ない。そこで、故郷でない場所で仕事を探し落ち着く。しかし、「巡業へ行こう、吉田村と久谷村から来てくれとのことだ」などと声が掛かると、仕事を放り投げて成田屋鯉之助一座にはせ参じる。パートタイムジョブのようなものである。どちらがパートかというと判定は難しい。勢い、堅気の仕事には就けない。風呂屋の釜焚き、リンタク(人力車を自転車で引くもの)・土工(一日240円なのでニコヨンとも呼ばれた)、パチンコ屋の裏方(今のコンピューター管理と違い、玉の供給は人力であった)掃除夫、女給(この言葉は死語になったようだ)、ETC、エトセトラ。どこまで行っても半端物は半端物。

お構いなしに時代は進む。テレビが普及し、力道山がシャープ兄弟を空手チョップでなぎ倒すシーンに、日本人は熱狂した。芝居の地位は更に低下する。彼らも年を取り後継者はいない。こうして旅芸人は消えた。今残っているのは、「芸人」であり「旅芸人」ではない。
「人は旅をすみかとしている」と喝破した芭蕉は歴史に名を残したが、本当に旅を栖とした旅芸人は何も残していない。成田屋鯉之助とは私の祖父である。

                                       以上

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投稿日 : 2011年5月22日 (日)

幻の温泉

      
私はだらだらと車を走らせていた。昼下がりの村には人っ子一人いない。うだるような暑さだ。
当時私は、農村集落排水工事の仕事をしていた。その日は覆蓋の寸法を測るだけの仕事だったので、帰りに温泉に立ち寄るつもりで、いつものように車のトランクには温泉セットと着替えを積んであった。準備万端怠りない。個人的には、仕事より温泉がメインである。
それにしても、もの凄い暑さだ。まばらな人家を縫って、行けども行けども、お目当ての温泉は現れない。ボーッとしている内に、通り過ごしたのかもしれない。
珍しいことではない。私には良くあることだ。
このまま行ったら、島根県を通り越して、もうすぐ鳥取県だ。
「どうしよう」
木陰に車を止めて、右手に拡がる田園風景を眺めた。左はなだらかな斜面で、あまり裕福そうでない農家の屋根が点在している。
静かだ。限りなく静かだ。太陽は自分の力を誇示するように頭上に輝き、人間共はあばら屋の奥に逼塞しているらしい。
私は目を閉じた。こんな時は昼寝に限る。幸い微かに風がある。両側の窓を開け、ハンドルの上に足を投げ出した。リクライニングシートを倒すと風が入ってきた。極楽だ。
空には雲一つ無い。村人は全員、昼寝をしているのだろう。
どのくらい眠っただろう。ふと目を覚ましたが、辺りは眠る前と少しも変わらない。相変わらず、頭上の大木の葉を揺するわずかな風の音以外は何もなく、犬の鳴き声さえもない。
車をスタートさせる。エンジンの音がやけに大きく響く。時速30キロ。のろのろと進む。
5分も進まないうちに、左手の電柱にに小さな看板が見えた。「○○温泉」と杉板に墨で書いてあり、赤い矢印が左を指している。自分をアピールしようとする気構えが全く感じられない、みすぼらしい看板だった。
お目当ての温泉ではないが「まぁいいや」と言う気になり、矢印に沿って舗装もしていない路地を左折、2〜30メートルも行くと行き止まりになった。そこは少し広くなっており駐車場のつもりらしい。左手に大きめの工事現場みたいなプレハブが見える。入り口のガラス戸に変色した半紙大の紙がヒラヒラしている。よく見るとマジックで○○温泉。
トランクを開け、温泉セットを小脇にずいと入る。そこには期待した番台はなく、廃校から拾ってきたような机が一つ、所在なげにある。
その上に乗っかっている汚いノートを見ると、「桑田・田中」とか「滝野川・安田」などと金釘流の文字が見える。桑田は字名で田中は名前だろうと見当を付け「呉・白方」と書いた。
「こりゃ、どうも、無料らしい。大いに結構だ」
「こりゃー、村営の公衆浴場だな」
と、勝手に納得した。村民は名前を書けば無料なんだ。そうに違いない。
「おまえは村民じゃないだろう」
と言う声が聞こえたような気がしたが、無視した。それにしても汚い。床板は所々剥がれている。気を付けないと足先が引っかかり怪我をする。
「いくら無料だと言ってももう少し・・・」などと身勝手なことを思いつつ辺りを見回す。
床に竹カゴがいくつか転がっており、衣類が入っているものも見える。それに倣って裸になり、湯殿との境の引き戸を開ける。ガラガラガラとやけに大きな音だったが、中は湯気で何も見えない。暫く立ち尽くして目をこらすと、湯気の向こうに何やら見える。一歩二歩進んで分かった。
「猿だ!」
と思ったのは間違いで、御年80歳は軽く越えているであろうじいさんが三人、黙然と湯に浸かっている。ぺこりとお辞儀をしたが何の反応もない。
「若い者が、昼日中から何しに来たんだ」
と言わんばかりの渋面である。若いと言っても、当時私は50を過ぎていたはずだが・・・。
掛かり湯をしてから入ろうと、浴槽に桶を突っ込んで驚いた。
熱い!熱い!尋常ではない。
だが、私も男の端くれ、じいさん達に負けるわけにはいかない。2〜3杯かぶって、ざんぶと入った。
死ぬかと思った。喉の奥から何やら湧き上がってくるようだ。驚いた胃が逆流しているのかもしれない。
「これはヤバイ、意地を張ってる場合じゃない」
私の理性がそう叫び、一分もしないうちに飛
び出した。その時目の端に捉えたじいさんの
顔が
「ニヤリ」
と笑ったような気がした。悔しいけれど命
あっての物種。桶に水を加えながらそそくさ
と体を洗い、もう一度じいさん達にお辞儀を
して飛び出した。
その間、三匹の猿は湯の中で微動だにしない。
「あいつ等はアホか!神経が麻痺しとるんじゃないか」
心の中で毒づいたが、敗北感は拭いがたい。
車に戻りクーラーをかけ、元の道に戻った。
離合が出来ないほどの狭い道には、相変わら
ず人っ子一人いない。真昼の静寂の中を私の
オンボロ車はトロトロと走る。
暫く行くとやっと道路標識が見え「松江80
q」の文字が見える。
「やれ嬉しや」
と思った途端、また睡魔が私を襲う。車を道
ばたに寄せ目を閉じる。ほんの五分くらいだ
ったと思う。
クラクションの音で目が覚めた。後ろに大き
なミキサー車が迫っている。
私は慌てて車を出した。突然映画のフィルム
が回り出したように、車が現れ人が往来し始
めた。国道に出ると、いつものような感覚が
戻ってきた。エンジンは快調、クーラーは快
適、一路広島を目指す。腹が減ってきた。何
か食べようと思い、街道沿いのレストランを
探しつつ、温泉の名前を覚えてないことに気
が付いた。どんなに頭をひねっても思い出せ
ない。そのうち諦め、そのまま今日に至って
いる。後で地図を見たのだが、分からない。
私はどこへ行き、何という温泉に入ったの
だろう?
あの猿たちは本当に居たのか?
何故あの村には人っ子一人いなかったのか?
あの村は本当にあったのか?
真夏の午後、もう一度あの村へ行きたい。
無人の村を歩いてみたい。
みすぼらしい家並みを見たい。
わずかな風を感じながら昼寝をしたい。
毎年、夏になると、そう思う。

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投稿日 : 2011年2月5日 (土)

 柿が色づく頃

僕が20歳の時というと、今から48年前のことになる。
僕は6000円を握りしめ、旅に出た。東京から長野、大町を経て、糸魚川から京都、広島、そして故郷の松山へ至る旅である。ホテルに泊まる金はないので、当然野宿である。
その時の話をしよう。
大町駅の木のベンチに寝袋を拡げた僕は、目がさえて眠られなかった。秋も深まり駅舎には寒気が居座っている。ふと見ると駅前の広場に、屋台の赤提灯が揺れている。ふらふらと起き出し、丸い木の腰掛けに座り、おでんと酒を注文した。僕の他には中年の男が二人、反対側で話し込んでいた。
「寒いですねー」
屋台のおやじは、おでんの皿を差し出す時そう言った。その声が若々しいので、ふと目を上げると意外に若い顔がそこにあった。その瞬間、僕はこの若者が何かをかたくなに守っていることを読み取った。昔はこういう若者が沢山いた。何故か今はいない。
「ここで何してるの」
「小説を書いてます」
この若者も、瞬時に私の質問の意味を理解したようだった。
「屋台で稼いでいます」とは言わなかった。
駅舎に戻りぐっすり眠った僕は、微かな物音で目が覚めた。屋台をたたんで、彼が帰っていく所だった。引き手にぶら下げたバケツが、ガラン、ガランと音を立てていた。その時僕は彼の足が、極端に内側に曲がっていることに気が付いた。不自由な足のせいで、屋台は前後に大きく揺れながら、朝霧の中を遠ざかっていった。
その日は快晴だった。汽車を待つ間、私は北へ向かってぶらぶらと歩いてみた。柿の色が青空に映え、近くの小学校からは歌声が聞こえてきた。北アルプスは既に雪をかぶり、想像を超える高さにクッキリと聳えていた。
彼は私より少し年上だったから、もう70歳だろう。毎年、柿が色づく頃になると、彼のことを思い出す。

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投稿日 : 2011年1月15日 (土)

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