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種田の一(かず)さん
種田一夫、通称「かずさん」。男前で同時にオカマであった。 若い頃、上方(大阪方面)でしっかりした歌舞伎を習得し 立女形にまでなったが、故郷の松山に残した母の面倒を見る為キッパリと足を洗い帰郷した。
裕福な家庭の一人息子だったのであくせくと働く必要はなかったが生来踊りが好きなので近所の子供に教えたりしていた。
愛媛県に北条という町がある。呉市の対岸あたりだ。 そこを少し高松方面へ行ったところに立岩という小さな字がある。 一さんはそこへも踊りを教えに行った。
昭和23年頃、その町に突如「浄瑠璃ブーム」が起きる。 田舎なのでたいした娯楽はない。 日本中で青年団の芝居などが盛んになった頃だった。 もともと立岩では村人が慰みに浄瑠璃を語っていたのだが 戦後の開放感の故か一大ブームとなる。 猫も杓子も浄瑠璃を語る妙な村になってしまった。 常磐津、清元、義太夫などの流派があるがここではごたまぜに流行った。 そのうち病膏肓に達し 「本物の歌舞伎を語りたい」と、大それたことを言うようになる。 素人指揮者がベルリンフィルを指揮するようなモノで実現できるわけがない。 訳がないけどやりたい。
そんなある日、あるおじさんが 「種田の一さんはもと歌舞伎役者だ。それも相当なモノだったらしい」 と言った。 この一言でひっそりと子供に踊りを教えていた一さんは一躍スターになる。 世話役が一さん宅へ日参し、一さんも元々好きだから 「やりましょう」 となった。 言うのは勝手だが衣装もなければ歌舞伎が分かるスタッフもいない。 一さんにひらめくモノがあった。 「松山の中京芸能社へ頼んでみよう」 中京芸能社は歌舞伎を演じるには十分ではないが衣装を持っている。 更に「成田屋鯉之助」というなかなか出来る役者を抱えている。 何とかなるかもしれん、と考えたのも無理はない。
芸能社の岩崎社長は面白がった。 「芸題によっては必要な衣装を作ってもいい」 とまで言い出した。 だが肝心の成田屋は 「わしゃ、せん」 という。 歌舞伎は格式ある伝統芸能であるから田舎でふざけて演ずるようなモノではない と思っていたフシがある。 (この生真面目な役者が私の祖父である) だが周りは皆面白がり、着々と準備は進む。 一ヶ月ほどすると、 「楽屋で差配するだけ。舞台には出ない」 と言う条件で成田屋は渋々納得した。 準備は一気に加速。
しかし困ったことが起こった。 村人は 「全篇を語りたい」 と言う。 歌舞伎は役者が見得を切り台詞を述べる。 浄瑠璃はいわば間の手だ。主役ではない。 だがこの町では浄瑠璃が主役。役者は脇役。 そこで一さんはなんと「クチパク」の歌舞伎を」 考え出したのである。 皆さんもやって見るといい。 かっこいい歌舞伎の台詞をパクパクでやったらどうなるか。 所作にまるで力が入らない。アホみたいである。 でもここでは浄瑠璃が主役。文句は言えない。 村全体がスポンサーなのだ。
そうこうしているうちに次の問題が浮上。 芝居をするには役者が必要。 終戦後一時帰郷してそのまま故郷に住み着いた芸人や、中京芸能社が抱えていた芸人に声をかけて集めはしたが一様に不満だという。 「パクパク」と口を動かすだけでは自分の芸が十分に発揮できぬと嫌がる。 芸人としてはもっともな言い分である。 これはギャラをはずむからと云うことで納得して貰った。
次の問題は「型」である。 歌舞伎には歌舞伎の型がある。 市川・中村・松本、それぞれ家芸の型を持っている。 しかし、歌舞伎出身でない役者にはそれができない。 台詞は覚えなくていいのだから、集められた芸人達は一さんからひたすら「型」を習った。 そこはプロフェッショナル、瞬く間に習得した。
私の母は面白がって娘役で出た。 女性が居なかったしギャラも良かったからだと思う。 当然、私の祖父成田屋鯉之助は苦り切っていたが金の力には勝てない。 女性役は母とオカマの一さんであった。
こうして世にも不思議な歌舞伎はついに実現した。 「人間木偶芝居」「唖(おし)芝居」 などと町の人々は揶揄したがお構いなく上演、村人は大いに満足したのであるが、実はこのクチパク歌舞伎は松山の端々にまで広がっていったのである。
こんな事もあった。 浄瑠璃に狂っている村人の一人に「五条の橋」を練習している人がいた。 この人が「五条の橋」を上演したいという。 こちらに文句を言う筋合いはない。 スポンサーなのだから。 母が牛若丸、一さんが弁慶をやった。 一さんも母も初めてだったが大好評を博した。 浄瑠璃は素人だが歌舞伎は玄人だ。 私たちが引き立ててやったようなものだ、と二人は鼻高々であった。 好評だったのでスポンサーからギャラとは別に祝儀袋が出て母はホクホクだった。 楽屋雀の云うには 「弁慶は若旦那風で優し過ぎるが 一さんだから仕方がない。 牛若丸は当り役だったが所作は弁慶より 勇ましかった」 とのことだった。
戦後の混乱期には色々なことがあったんですなー
その後、 一さんは藤間流だったので「藤衣裳店」を開く。 衣裳店と言っても店を張るのではなく 普通の仕舞屋(しもたや)で小さな看板を掲げただけである。 「藤衣裳店」は当時中国四国の総帥であった藤間藤一郎さんの後援を得て着々と業績を伸ばしていく。 藤間藤一郎さんの息のかかった弟子やその又弟子の中には名取りも多く裾野は広がっていった。 一さんが中京芸能社の傘の下から独立すると両者とも客筋が違ってくるのは致し方のないこと。 扇崎流・若柳・花柳・阪東と客筋も小さく別れていく。 お城の北は「藤」南は「中京」と しのぎを削ったこともあるが今となっては懐かしい思い出。 中京芸能社は社長の岩崎さんが病に倒れたので会社を売却して郷里の大阪に帰ったがこの会社を買った森さんは一さんと同じ歌舞伎出身の人であった。
それから数年後のこと・・・ 松山市堀江の近くに花見橋という村があった。 名前は華やかだがただの村である。語るべきものは何もない。 一さんはそこへも踊りを教えに行った。 村の青年が習いに来る。その中に賢ちゃんという男前が居た。 農家の次男であったが、あろう事か一さんはその青年に恋をした。 いまなら「個人の勝手」だが当時はとんでもないこと。 一さんは悩んだ。そしてクチパク歌舞伎をひねり出した知恵者は妙案を思いつく。
ある日、上述の役者成田屋鯉之助は妙な噂を聞く。 「一さんが嫁をもろうたらしい」 「なにっ!」 「相手は成田屋さんも知っているあの賢ちゃんだそうな」 成田屋は驚愕した。 そんなことをしたら村八分どころか踊りの師匠もできなくなる。 社会的自殺だ。 「籍はどうした?」 役場が受け付けるとは思えない。 「親子や、親子。養子にしたらしい」 「ははーなるほど、奴も考えたなー」 親子と言っても実質は夫婦。 賢ちゃんが「男」なので一さんは「嫁」の立場となる。 普通の生活では賢ちゃんが指図して一さんがまめまめしく動く。 踊り・髪結い・着付けは一さんが先生なので立場が逆転し言葉使いも妙なものになる。 賢ちゃんは利口な子で髪結いや着付けも習得し,一人前になり、藤間流専門の貸衣装店を経営し事業家としても成功した。 昨年賢ちゃんから我が家に手紙が届いた。 「父が亡くなりました」 最後まで親子だったんだ。 手紙の上書きには「藤衣装店」と書かれてあった。 事業は継続されていたらしい。 噂では賢ちゃんは普通の嫁さんも貰ったらしいが 松山へ調べに行くほどの酔狂は私にはない。
投稿日 : 2009年11月8日 (日)
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